About
Archive
Marebito news letter
Text
Youtube
contact


◇稽古場レポート③(10月30日〜11月5日)

稽古場レポート①(10月4日〜10月16日)稽古場レポート②(10月22日〜10月29日)/ 稽古場レポート③(10月30日〜11月5日)


稽古場日誌の3回目。11月頭、通し稽古が入る前までの記録。このころ最後の戯曲が完成し、上演順と上演戯曲も11月2日に一般公開された。演目と演目の繋ぎも構成され、個々の戯曲演目単位ではない『福島を上演する』としての全貌が大分うきあがってきた頃である。




10月30日

この日稽古した『東部体育館』の戯曲には、稲光や落雷の描写がある。もちろん、それらの描写に音響や照明は加担しない。雷の表象はなく、ただ雷に反応する市民たちの動作がある。
『東部体育館』をひととおり通したあと、俳優たちがその雷に対する反応について互いに確認しだした。稲光と音(=実際にはないが俳優が知覚するもの)と、台詞と動き(=実際に俳優の身体を通じて存在するもの)の順序について混乱したようだった。雷が光るのを見て一人が「あ」と言ったと同時に雷が落ち(音)、全員驚いて窓の外を見る-という一連の流れを、実際の仕草も交えながらその場面に出る5人で確認した。しかしその話が落ち着いたところで松田があっさりと「今のままでいい、変えなくていい」と言った。混乱を避けるための確認はある程度必要だろうが、動きとしては今以上にリアリズムに寄るのは違うのだろう。

そのあとに稽古した『パティオ』は、戯曲内に描かれた空間が立体的に複雑になっている。マンション2階のベランダが主な舞台だが、そこから見下ろした1階部分の出来事も描かれている。実際の空間(つまり稽古場や劇場)とは異なる、〈高さ〉のレベル差が戯曲内の空間には存在してしまう。1階部分を通る人と2階ベランダにいる人で会話が交わされる場面を、同じ高さレベルの床の上で演じる情景は不思議であった。しかし不思議と、その実際にはない〈高さ〉が感じられることがある。そのように知覚される(錯覚する)わけではない。同じ高さにいる人たちであることは明確に知覚できているのだけれども、〈高さ〉があることは感じることができる。不思議な歪みだった。しかしこの日1回目にやったときには俳優たちの首の角度のずれや、2階にいる2人が1階にいる人を目で追う追い方のずれがあり、ときどきどういう空間なのかよくわからない状況になった。この日はその部分のルールを明確に定め固定し、実際とは違う〈戯曲内に描かれた立体的空間〉をどのように現実の空間と共存させるかの調整を行う。



11月3日

この日は『警察署の道場にて』の初稽古だった。これですべての戯曲を一通りは稽古したことになる。
幸いにも(?)演出部の福井が剣道をやっていたこともあり、剣道のお辞儀の仕方や竹刀の扱い方などを福井に確認しつつ稽古が始まった。リアリズムを求めるわけではないが、しかしこの戯曲において〈お辞儀〉や道場の格式は重要な意味を持つ。
松田は以前、演劇には「これからここで何が起きるか」と「すでにここで何が起きてしまったのか」という2つの問いがあり、コントは前者であると説明していた。普段はコントユニットをやっている神谷圭介による戯曲は、確かに前者の要素が強い、と『千貫森』をはじめてみたときに思った。『警察署の道場にて』も紙に書かれた戯曲を読んだときには同じ印象であった。しかし戯曲が俳優の身体を通して劇として前にあらわれたとき、かなり印象が変わった。予想と反して、「すでに起きてしまった何か」の力が圧倒してくる場面もあった。
そしてその圧倒的な力は、〈お辞儀〉の動作の在り方によって大きく影響を受けるものだったと思う。



11月5日

翌々日からは通しが始まることもあり、個々の演目の最終調整に入る。

ここで問題になるのは空間の違いだった。『千貫森』に出演する俳優が「いままで狭い稽古場でしか練習していなかったので今日広い場所でやったことで印象が変わった」と、空間の広さによって(ではけの時間以外にも)演技に影響があることを話した。
そのことから照明の問題に話は移った。体感としての空間の広さは照明にもよる。基本的には『長崎を上演する』同様、全体的に明るいままの照明で行くそうだ。ただ今回は、会場が完全なブラックボックスの劇場ではなく体育館という散漫な場所であるため、『長崎を上演する』よりはコントラストをつけるかもしれない。そのような暫定の説明がなされた。

台詞・ではけのタイミングなどは、実際の会場と広さが変われば移動時間も違ってしまい、合わなくなってしまう。だから結局本当の意味での〈最終調整〉は劇場に入ってからでなければできず、今はおおまかに位置をとらえたうえでやらなくてはいけない。特に『スターバックス・コーヒーにて』は、人の動線と複数の会話の混ざり合いがかなり複雑になっている。そのため狭い場所でやるとなかなか計算が合わなくなることもある。
しかし、演技バランスの最終調整は場所が変わっても可能だ。たとえば「泣き」の演技がある作品の稽古では、何度も涙をぬぐう仕草をする俳優に「あまり動かない方がいい」と松田は言い、ポーズの連続にも近い、細かい動きを排除した一連の科(しな)で「泣いている」という抽象的な身体へと導く。そのうえで台詞のしゃべり方にも泣きが入っているのをやめさせ、「泣いているように見えるから大丈夫」と言った。
「(3人のあいだに)幸福な時間が漂う」というト書きの場面について何かやっているか尋ねると、3人のうち1人は少し「つくって」いて、ほか2人は何もしていない(その幸せになっているもう1人の俳優を見ていると自然と幸せになる)とのことだった。確認はしたものの特にその場面に違和感があったわけではなく、そのままでOKと松田も言った。



11月7日からは1日ずつ通しをしていく。4日間毎日演目が違うため、通しも4日必要だ。本番初日の10日前に通しをしないと間に合わないというのは、凄まじいことだと思う。限られた時間のなかでできることを取捨選択し、17日からの4日間たちあがる場の力を最大限に出来るよう、ひとつひとつ確認しながら磨き上げていく。

(森麻奈美さんによる稽古の記録は、当日配布されるパンフレットにも掲載されます。)