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◇稽古場レポート②(10月22日〜10月29日)

稽古場レポート①(10月4日〜10月16日)/ 稽古場レポート②(10月22日〜10月29日)/ 稽古場レポート③(10月30日〜11月5日)


稽古場日誌2回目は10月後半の3日間について。次第に稽古も佳境に入り、また10月24日にはF/Tキャンパスでのワークショップも行なった。
10月前半は1日に1演目(休日の長時間の稽古だと2演目)をゼロからはじめてしっかり固めていく状況だったため、演目ごとの記録とならざるを得なかった。しかし演出が固まってきた演目も増えたこのあたりから、稽古のピッチを上げて1日に複数演目の稽古をするようになる。前回はその日にみた演目名を日付の横に書いていたが、1日の稽古の中でも鳥瞰的に全体を感じることが増えたため、今回からはその記述を外す。


10月22日

「仕草を疎かにする」ことはマレビトの会の演技において重視されていることである。緻密なパントマイムのように明確に対象を作りこみ過ぎない仕草、それは演劇を表象(つまり再現、模倣)とは別の次元のものにする。

松田がよく出す指示の中で印象的なものに「そこからあらわれていい」というものがある。なにか手で道具を持つような場面がある時に、その道具が目の前の中空からあらわれてよい、ということだ。たとえば〈鉄パイプで殴る〉というシーンでは、殴る役の俳優は直前まで手ぶらのニュアンスで歩いている。そしてそのまま、いつの間にか持っていた鉄パイプで殴る―としか言いようのない、リアリズム演劇からみたら矛盾でしかない動作がある。「歩く」という動きと「鉄パイプで殴る」という動き、それぞれはその通りの動きをしているし順番もト書き通りなのだが、その2つを繋ぐのに必要であろう「鉄パイプを拾う/持つ」というあるべきプロセスが欠落している。その欠落による唐突感にぎょっとさせられる。

またたとえば、「〈歩く〉イメージで、その場にいたままで」という演出や、「そのまま〈眠って〉、たちあがって」という指示など、実際の身体の状態とは矛盾するような別の状態を注文されることもある。俳優は止まったまま正面を向いているが、不思議と〈歩いている〉ニュアンスがある。「〈眠って〉」と言われた俳優は最初横になろうとしたが「そうじゃないそうじゃない」と言われ、〈眠る〉という行為と最も合致した身体の状態から引きはがされる。
ここに在る身体とは別の状態にある身体のイメージも負う身体。中空から道具をとることにしても、常にこの俳優その人が置かれている実際の空間とパラレルに別の空間の意識を同時に持つことを要求されている。しかしそれはかえって、「実際の空間を無視しない」ことにかえってくる気がする(なにせ表象へ向かう演技の場合、徹底すればするほど実際の空間はみえないことにされてしまう)。



10月24日 モニタリングワークショップ-『福島市役所』

F/T主催の学生たちのゼミ合宿、F/Tキャンパスの授業の一環でマレビトの会はモニタリングワークショップをおこなった。
モニタリングワークショップでは実際にシーンをみてもらい、観客にはどのように見えたか・俳優の意図とのずれがあるか、などを対話で検証するもので、『長崎を上演する』の際にも一度立教の学生を対象にやっていたのだそうだ。
今回は21本ある戯曲の中から『福島市役所』を1本丸々やることになった。

会場が稽古場とは違う場所なので、空間の立ち上げからはじまる。場所の広さが変わると、座組で共有したすべての空間意識がリセットされてしまう。エレベーターの位置の設定など空間の確認をしてから、その関連部分だけ稽古をし、『福島市役所』を通す。

はじめて「観客」と作品が交わった日だった。
俳優が(そこにはない)窓の外を示し会話をするとき、観客のまなざしも俳優とともに窓の外、空間の外へと向けられていたように思う。それは知覚されざる具体的な何かを共有してみているのではなく、〈俳優の眼差す先を眼差す〉という、なにかがたちあがろうとするその場の共有のようだった。

そしておそらくこの日の学生からもらったフィードバックの中でのちのち影響を及ぼすのが「方言」についての質問だったのではないかと思う(この質問がなくても、同じ問題提起はあったかもしれないが)。『福島市役所』は方言の台詞が一切なく、俳優たちは皆自然に話すことのできる言葉(概ね標準語)で話している。「このことにより、遠いはずの福島を身近に感じた」という意見とあわせて「なぜ方言を使わないのか」という質問がでた。福島を〈表象/再現〉する試みではない、ということをまず伝え、俳優が普段使い慣れない東北弁を話そうとすると〈典型イメージとしての東北人〉を表象しているようになってしまってうまくいかなかったのだと松田は説明した。福島の人でない俳優が福島の人であるかのようにしゃべって見せることが寒々しいという感覚は、反応を見る限りその場にいた学生にも共感されたようであった。

しかしアイダミツルの戯曲では、配役一覧にもその役の訛りレベルが何段階かで示されている。



このことについては数日後、アイダ自身が「自分の戯曲に出演している俳優の訛りレベルが薄らいでいる」ことの指摘とあわせて「なぜ訛りを必要とするか」をメールで説明した。
もちろん、福島を表象するため・福島の人を表象するために方言を使うのは違うという意識はアイダも共通している。そのうえでも「距離」をうみだすために言葉の差異が必要とされたのが今回のアイダ戯曲の特徴だ。言葉・発話における繊細な問題の存在がここで顕在化され、稽古でその「訛り度合い」を探り調整する意識が演出部・俳優部ともに共有されていった。



10月29日

この日ははじめて稽古する演目が2つ(正確には5つ)もあった。
初稽古演目のうち、『千貫森』はまず一回読んでから動きの演出をつけていった。演目別でみると残りの稽古回数はごくわずかであることもあり、時間をかけて丁寧につくっていく。
『蚊』もはじめて稽古する演目だったが、これは1日1本ずつ上演する4連作のショートショート(上演時間はどれも1分以内!)のため、あっという間に稽古が終わり次の演目に移った印象だった。
といっても稽古がすぐに終わったのは「演目が短い」という理由だけでもないだろう。『蚊』自体ははじめてでもここまでずっと稽古を積み重ね、また松田もメールで根源的・軸的な面での問題提起を送るようになり、俳優たちの勘の研ぎ澄まされ方が違ってきたこともあるように感じた。

この日は最後に、俳優が自ら方言レベルについて松田とアイダに確認する場面もあった。一度も稽古していない戯曲は残り1本となり、全体的にも大詰めである。台詞・動きの正確さをあげ、〈訛り度〉や間合いのレベルを調整していくチューニングに重きが置かれる稽古の段階に来ていた。

(森麻奈美さんによる稽古の記録は、当日配布されるパンフレットにも掲載されます。)