明倫アート 10月号 / 松田正隆 インタビュー①
①「ヒロシマ—ナガサキ」シリーズの第三弾として、今回の「HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会」が上演されるわけですが、そもそもこの題材を取り上げるきっかけとなったのは何でしょうか。
いま、私たちが広島や長崎のことを語るとき、原爆による受難とその歴史的教訓をふまえた上での平和への記念(祈念)という文脈を避けては通れないという抑圧があるように思います。それはいまや国民や共同体の構成員のアイデンティティーとなっているのかもしれません。私が「唯一の被爆国」という言葉や広島市へのオリンピック招致の運動などに感じる違和感はそのようなところからきています。ふたつの爆心地はその後、加害/被害の対立などに単純化できない、さまざまな立場からの思惑がうずまき、とても強いポリティカルな「場」を構成しているように思います。そこでは、それぞれの立場からの、「爆心」の占有が図られているのではないでしょうか。陜川(ハプチョン)という韓国の被爆者の多く住む町をモチーフの一つにしたのは、私たちの集団意識に無意識のうちに働くそのような爆心地の所有願望に抵抗する意味合いもありました。しかし、その企てには危うさもあるのかもしれません。陜川を、私たちが異邦性を導き入れるための方策とし、そこに外部性を肩代わりさせてはいないかということです。当然、陜川はそこ住む者にとっては外部ではありません。このように、創作過程において産出される「私たち」意識とその「外部」にも着目し、今を生きる私たちにとっての「爆心」や「異邦」という言葉の本質と虚構を考察したいというのが、二つの都市、ヒロシマとハプチョンを取り上げた大きな理由です。
②松田さんご自身が、長崎のご出身であるわけですが、生まれ育った環境で、戦争体験について触れる機会が多かったのではないかと思いますが、どのように受け取ってこられたのでしょうか。
私にとって、父が戦争に従軍し兵士であったことは、ある意味驚きでありました。父が前線で戦った経験のあるなしではなく、私の世代の知りえなかったそのような戦争体験への驚きでもなく、もっと単純なことです。「兵士であること」は「他者を敵とみなし、それを殺害せよ」という命令をうけ入れるということです。普段、私たちには倫理的にも「人を殺してはならない」という命題があるように思われますが、その前提の通らない世界に生きた者が自分の親であったのだというおそろしい驚きでした。しかし、これは、なにも私に限っての問題ではありませんが。
もうひとつは、子供の頃長崎の原爆資料館で「無脳児」の写真を見たことがあります。現在、それは展示されておりません。被爆との遺伝的関わりが不明であるという理由から外されました。一時期までは被爆の実相をあらわす悲惨な例として展示され、それが証明できないとなると資料室の闇に収納されることになる。私には、その無脳児の翻弄されかたが、なにかを暗示しているように思えます。無脳児の側からは、何も言えません。写真ですし、脳がないわけですし、生まれて3時間で死にました。しかし、その「存在」の徹底した受動性に惹き付けられて来ました。
③現在の日本で、原爆や第二次世界大戦に関する題材を取り上げることの難しさや、意義を感じられることはありますか。またそれはどのようなときでしょうか。
戦争体験を次の世代へ伝えるということで、夏になるとたくさんのテレビの企画番組が放映され、日本各地で追悼集会が行われたりします。いわゆる記憶の伝承の問題です。私はそれほどそのことに興味があるわけではありません。むしろ、夏の風物詩のようになされる記憶の伝達行為のうちに権力構造が潜んでいるのではないかと思います。また、日本の平和維持は沖縄におかれた米軍の核の抑止力によってなされています。そういう意味では、現時点でも私たちは火蓋のきられない戦時の状況にあると言えるでしょう。ヒロシマ・ナガサキは過去における重大な効力ある実例(悪く言えばみせしめ)として、この東アジアの抑止力における平和に貢献しているのです。なんという皮肉なことでしょうか。爆心地をそのような記憶の伝達、あるいは生々しいポリティカルな脈絡から演劇的に解放したいのですが。むずかしいです。
④今回は、昼の回/夜の回で長時間展示上演がされるなか、観客が好きな時間を切り取って鑑賞する、というスタイルです。この形式について、ご説明いただけますか?
広島の原爆資料館を今度の作品の空間設定のモデルにしようと考えていました。あそこにはたくさんの遺品が展示されていますが、被爆していなければ、それらはただの「物」だったのです。被爆によってある意味展示的アウラを獲得したといえます。それ故に重要であり、その未曾有の光をあびたゆえに展示されたのです。そのことを手がかりに私たちなりの展覧会を催したいと思いました。原爆投下によって被爆することと人が言葉によって名付けられることは全く関係のないことのようにも思えるし、近しいことのようにも思えます。日常品が被爆によって展示物として定義づけられたように、生きている人間である以上社会的になんでもないものにはなれないからです。しかし、あの日、爆心地においては一瞬そのような事態がおきました。その垂直の暴力からの解放を名付ける言葉と名付けられる展示物との関わりから試みてみたいのです。そのためには、さきほどの無脳児の存在を指針としたいと思います。無論出演者が無脳児になることはできませんが、そのために演劇というフィクションがあるのだと思います。
⑤観客が、「何かを見逃している」ということを自覚することも含めての上演形態だ、と仰っていましたが、それについてご説明いただけますか?
演劇には、なにか集団で、作り手の側から送られてくる一方的な表現を見逃すことなく見なければならない抑圧があるように思えて、私は動けない客席にいることにずっと緊張というか重さを感じていました。見逃すことを自覚することが観賞者の目的ではありませんが、そうならざるを得ないことになるということです。とくに見たくなければ見ないでいいとか、ここを見ている間にも何かやっているかもしれないけれどそっちを見られないのはしかたがないと思えるような演劇になると楽になるのではないか。従来の演劇鑑賞は基本的に演技者と観客が対面しているか、舞台を取り巻いて観るか、いずれにせよ、見逃しのリスクは少ないように客席は設置されています。しかし、見たものがあれば、その分、見たものの間に見なかったことが進行していたはずです。そうではない経路をたどった違う観賞者はそれを見ていたかもしれません。そのことがはっきりするような、鑑賞者の視線のありかたを模索したいのです。作り手にも予想できない観劇体験を目指したいと思ったとき、見逃し聞き逃しのリスクはかえってプラスにはたらくように思われます。
⑥「ヒロシマ_ナガサキ」シリーズは、今後も継続されるのでしょうか。また、現在着目されているものについて、すこしでいいので教えていただけますか?
継続して作りたいと思います。次回は、久々に戯曲を書いて創作したいです。膨大な戯曲になると思うし、二年ぐらいかけて長崎のことを舞台作品にしたいと構想しています。
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